人生会議(ACP)って知っていますか?

みなさん、人生会議って聞いたことがありますか?2019年に吉本の小薮さんのポスターで炎上したことでお知りになった方もいらっしゃるのではないでしょうか。英語ではアドバンス・ケア・プランニング (ACP)といいます。あなたやあなたのご家族が人生の最期を迎えるときに非常に大事なことなのですが、実際あまり浸透しておらず、問題となることがあります。いろいろな背景がありますが、現在の日本において「死」が身近でないことも一つの要因なのかもしれません。

目次

人生会議(ACP)とは

では、人生会議(ACP)とは、どのようなものでしょうか。日本医師会ではこのように記載されています。
“ACP(Advance Care Planning)とは、将来の変化に備え、将来の医療及びケアについて、 本人を主体に、そのご家族や近しい人、医療・ ケアチームが、繰り返し話し合いを行い、本人による意思決定を支援する取り組みのことです。”
少し難しい記載なのでかみ砕いて説明すると、死が迫ったときにどのような医療処置を行うかを、後悔しないように事前に話し合っておきましょうということだと思います。

人生会議(ACP)の背景

ACPは比較的新しい概念であり、江戸時代や中世ヨーロッパにもありませんでした。なぜかというと、そのような議論が起こるような医療技術がなかったからです。死が迫っている人を全力で助けようとしても中々それが叶わない時代には、延命という概念もなかったわけです。不老不死の薬を本気で目指していた時代には、少しでも命が長くなること、延命はむしろ良いことと考えられていました。それから時代が変遷して、劇的な変化が起こったのは、人工呼吸器の開発からと思います。これまでどうしても延命できなかった人を、人工呼吸器を用いることで、劇的に延命できる時代に突入してしまったわけです。それは良いことと同時に、生にかかわる重大な問題を提起しました。「生と死の選択」です。

例えば意識などの生きるために重要な機能がなくなっているのにもかかわらず、ただ人工呼吸器で生かされているという状況があり得るようになってしまいました。回復の見込みがなく、ただ人工呼吸器で「生かされている」状態、それが人の生として良い状態なのだろうか、それに対してまだ人類は的確な答えを持ち合わせていません。現代の人は、人の死に対する再定義とどのような死に方がよりよいのかということを考えさせられるようになったわけです。

「生と死の選択」と「医療技術」

生と死をどのようにとらえるかという問題に向き合うことは重要で、医師もその問題に携わる機会は多いですが、その分野に関して医師は厳密には専門家ではありません。今回お伝えしたいことは、そのような哲学・倫理的な問題と同時に、どのような医療技術があるかということを知ることがその判断に直結するということです。様々な医療技術がありますが、今回はその中でとくに問題となる、救命救急処置とDNAR、人工呼吸器、胃瘻・中心静脈栄養などを中心にお話しします。

救命処置とDNAR

ここでもう一つの用語、DNARという言葉をご存じでしょうか。Do Not Attempt Resuscitationの略で、心肺停止時に救命処置を行わないということであり、DNRやno CPR (cardiopulmonary resuscitation: 心肺蘇生)などと言われることもあります。これらの用語は覚える必要はないのですが、このように救命処置をあえて行わないという選択肢があるという事実をわかっていていただきたいのです。*救命処置に関しては、別の項で。

95歳男性、加藤治夫さん(架空の人物)の例

加藤さんは認知症で十数年施設に入所しており、現在はほぼ寝たきり状態で、意味のある発語はありません。1年前に末期の膵臓癌を指摘され、最近は徐々に衰弱してきていて、食事もとれなくなってきています。今朝からだんだん意識もなくなってきて、血圧も下がり、脈も遅くなってきました。昼過ぎになって脈も触れなくなり、呼吸も止まりかけています。

さてこのような状況で、このまま自然にお看取りするか、救命処置を行うかを判断しなければなりません。お看取りする場合は、呼吸の停止、脈拍の停止、瞳孔散大を確認してから死亡と判定します。

救命処置を行うという場合は、上記の死亡の徴候が出る前に、胸骨圧迫(いわゆる心臓マッサージ)、補助換気(呼吸を助ける)、静脈路確保(点滴)と昇圧薬投与、場合によっては除細動(電気ショック)などの必要な処置を、一定のアルゴリズムに従って全て全力で行います。この「一定のアルゴリズムに従って全て全力で行う」ということが重要であり、中途半端に点滴だけ行ったりしても救命はできません。救命処置はチーム一丸となって共通認識の中で行うため、イレギュラーな処置は基本行いません。

さて、この方に救命処置を行ったとしましょう。胸骨圧迫をしながら呼吸管理をします。口から気管内に管を入れ(気管挿管)、その管を人工呼吸器につなぎます。場合によっては胸骨圧迫で胸骨や肋骨が骨折することがあります。心電図で除細動(電気ショック)を行うような不整脈ではなかったため、除細動は行わず、点滴をつなぎ、血圧を上げる薬など投与します。それでもそのまま亡くなってしまう場合もありますが、今回は何とか一命をとりとめました。元々心臓に問題はないので、人工呼吸器で呼吸が管理され、点滴で血圧も維持できれば、すぐに命にかかわることはないので、これから中長期的な管理をどのようにするかを検討します。

まず気管挿管で口から喉の奥にチューブが入っている状態ですが、これは苦痛も大きく長期管理には向いていません。そのため、喉仏の下あたりに孔をあけて気管に直接通路を作る、「気管切開」を行い、そこに気管カニューレを挿れて人工呼吸器をつなげることになります。そうすると基本的には呼吸の問題は解決です。その他の問題としては水分と栄養の問題があります。腕に入っている点滴では十分な栄養がとれず、口から食べることもできないので、代わりの栄養が必要となります。十分な栄養をとる方法としては、胃瘻か中心静脈栄養が必要になります。長期的管理には胃瘻の方がよいため、人工呼吸器をつけながら内視鏡下胃瘻造設術(胃カメラで見ながら、胃の中とお腹の外をつなぐ通路を作る)をします。これらの処置が落ち着けば、点滴も抜去でき、適宜胃瘻から栄養剤をいれて過ごすことになります。

その後は、定期的に痰がたまるので、気管切開をした孔に留置した気管カニューレから細い管で数時間毎に吸引をします。清潔に保つために清拭やおむつ換えを行います。また床ずれ(褥瘡)にならないように、1-2時間に1回、体位変換をします。加藤さんの場合、その内に何とか眼が開くようになり、手足も動くようになりましたが、気管切開をしているので声は出ません。認知症のため適切な判断ができず、自分で胃瘻チューブや気管カニューレを抜いてしまいそうになるため、必要に応じて手足を縛ったり、薬で鎮静をかけたりすることも検討しなければなりません。元々癌患者さんなので、骨転移などがあれば痛いかもしれませんが、痛みがあるかどうかもわかる術がありません。そのような状態で数週間の介護を行っている内に、他のトラブルも発生します。尿路感染症や肺炎などは多いトラブルで、最期は大抵そのような出来事のために命が奪われます。

救命処置を行うということ

なんとなくイメージができたでしょうか。昔はこのような事例が多かったと思われますが、DNARという概念が出てきて、私が医師になってからはこのような事例は少しずつ減ってきています。救命処置を行うということはご本人にも多大な負担を強いて、何とかその場を乗り越えてもらうものです。救命処置を行うことで、劇的に状態が改善して社会復帰できる場合はそれでも行うべきだと考えますが、このように慢性的な病気と老衰で命がなくなろうとしているときに救命処置を行うということは、その先に何を期待して行うかということをよく考えて行う必要があります。

一つ重要な点は、一度人工呼吸器をつなげてしまった場合、簡単には中止できないということです。もちろん完全に状態が改善して、呼吸器を外しても自分で呼吸が保てることが確認できた場合は徐々に訓練して外します。しかし、このように全身状態が悪い人は基本的には一度人工呼吸器につながってしまうと、そこまでの改善は見込めないことが多いのが現実です。それでも人工呼吸器を外してしまうと、数分以内に呼吸が停止して亡くなってしまいます。それを分かった上で外した場合は、現在の日本では殺人罪に問われます。安楽死の議論は少しずつ進んできてはいますが、まだまだ課題は多く、認められるとしてもかなり限定的な状況になってくると思われます。

人生会議(ACP)のススメ

医療者はこのようなことを想定しているため、急変時に救命処置を行うか、行わない(先ほどのDNAR)かを、事前に話し合います。非常に難しい問題のため、なかなか決めきれない人も多いのが実情です。方針を決める上で一番大事なのはご本人の意思です。しかし加藤さんのような状況では、ご本人に確かめる術はなく、ご家族に相談する他ありません。そのような状況を避けるために、事前にご本人の意思を確認しておけばよかったと思いませんか?それが始めにお伝えした人生会議(ACP)です。

加藤さんの場合はこれまで人生会議を開くチャンスは何度かあったと思われます。認知症と診断されたとき、施設に入所したとき、癌と診断されたときなどです。最近では施設入所時などに、ご本人、ご家族の意思を確認する施設も多くなってきています。しかし、その場合でもなかなか主体的に考えられずに、決定を先延ばしにしてしまうことが多いのも事実です。それで最期に命にかかわるような状況になって初めて考えても、なかなか冷静に判断するのは難しいのです。

はじめの方でも言ったように、医師は生と死に関する哲学・倫理の専門家ではありません。このような慢性期の患者さんに救命処置を行うことが悪いと言っているわけでもありません。救命処置を行った場合にこのような状況になるという事実を、ご本人やご家族がしっかりと理解して受け入れた上で、自分の意思に沿った判断をしていただきたいのです。

加藤さんの場合のように人生会議を開くチャンスが何度かありましたが、そのような場合だけではありません。人間だれしも突然命が危機にさらされ、自分の意思を表明できない状態に陥る可能性があります。そのため、成人になってなるべく早い時期に行っておくことが理想ではあります。しかし実際には非常に難しい問題で、死について家族と語るというのは、今の日本では抵抗がある人が多いと思います。それでも、生と死について、もっとフラットで気軽に話しあえ、軽い人生会議(ACP)を度々行うということが当たり前のようになってくれればよいのかなと、思ってはいます。

今回の記事を見て、一度人生会議(ACP)を開いてみようかなと思っていただけたら、さらにもし実際にやってみたという人がいらっしゃれば、とてもうれしく思います。

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